まあいつものように遅々とした進行で、各所に迷惑とそして何より不安を与えているわけだが。
まあでも、今日の導入部の通し稽古の手応えは本物だ。これは本物だ。
以前にも書いた(っけ?)が、今回の『わが家の最終的解決』はアメリカのドラマ、特に「シットコム(もちろんシチュエーションコメディの略)」の形式を模した、全三話構成だ。一幕ものじゃないのだ。アガリスクは基本的にヨーロッパで定義されるところの「シチュエーションコメディ」を武器にしているわけで、コレは欧州と米国の「シチュエーションコメディ」の二つの文法のミクスチャーなんですよバァンバァン(机をたたく音)、と「知らねえよ」と言われそうな個人的セールスポイントは置いておいて。
ここ数日は一話(いわゆる一幕目)と三話の稽古をしている。
登場人物がユダヤ人だろうがゲシュタポだろうが、相変わらず隠したり誤魔化したりさせている。でもその「いつもの」形式のレイヤーを「1943年のアムステルダム」にズラすだけで、こんなにも面白くなるのか。
ホロコースト(ショア)という圧倒的な「悲劇」を、どこまでも「喜劇」的なシチュエーションコメディの文法で切り取ることで、結果的に凄く立体的な物語性を獲得している。
すべてのシーンがコメディだ。そして同時にドラマチックだ。
笑えるんだけどよく考えると笑ってる場合じゃない。笑えない状況なのに笑えてしまう。
徹頭徹尾「コメディ」なんだけど、その視点で観られるんだけど、軽薄じゃない。無意味じゃない。決してそれは題材が重いから、というだけじゃない。だって腹を抱えて笑えるんだもの。そう、笑えるから凄いんだ。悲愴感も残酷さも引き連れて、初めてコメディだと俺は思う。だって、「嘘をついて誤魔化して」て人間の根源的な罪だもの。シチュエーションコメディがそれを扱っている以上、人間の本質描けないのは嘘でしょう。
史上最大の「悲劇」というレイヤーと「コメディ」との距離感が産む、深さみたいなもの、その片鱗を今日は感じたんだ。ホロコーストを扱う、という部分に正直ビビってたけど、これなら多分勝てるぜ。不謹慎とかそういうちっちゃなレベルで語れるような作品にはならないぜ。
チャップリンが言っていた。
「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇。」と。
そのフォーカスを、ブレブレにさせてやる、そう思った。そしたらクローズアップしたって笑えるじゃん。
まあさっきも言ったように進行は通常通り絶賛遅延中なのだけどね。大きなこと言っている場合じゃないのだけどね。
でもさ。面白いもの出来たら楽しくならなきゃ、やってられないぜ。